会津若松で開業した志

会津若松市に医院を開業し、半年を迎えようとしてます。
最近、多くの方々に、『会津出身でもないのに、何故、会津若松で開業をしたのですか?』とか、『竹田病院の副院長までやって、還暦目前で開業とは思い切ったね!』など、一風変わった経歴に、疑問の声を掛けられます。もちろん、まだまだ、後ろを振り返るタイミングではないのですが、少しばかり、私が還暦を前にして、会津若松での開業を決意した経緯をお話しさせて頂きます。

私は、1964年2月に山梨県中巨摩郡竜王町(現甲斐市)に生を受けました。医師を志した原点や地元の山梨医科大学(現山梨大学医学部)に進んだ経緯は、些か、面倒なお話となりますので、割愛しますが、羽陽曲折の後、1990年春、外科医としての医師人生を歩み始めました。

甲府盆地の夜景・富士山を望む

初期の頃の外科医として私は、比較的小さな病院への出向が多く、その後に私の運命を変える竹田綜合病院のようなマンモス病院には縁がありませんでした。幸いなことに、小さい病院でも、外科医としての修練の環境には恵まれ、素晴らしい師匠にも出会うことが出来、多彩かつ多くの経験を積ませて頂き、外科医としての礎を築くことが出来たのです。
特に、師匠の言葉には、忘れられないものが多々あります。その中で、今でも私の医師としての原点になっているのは、『お前のような駆け出しの医者が、偉そうにしてはいけない。お前の見ている患者さんは、皆、お前より先に生まれた、いわば先生だ!その人の、生きて来た年輪から見れば、お前の医者としての経験なんてペラペラの紙も同然。病気の事だけじゃなく、患者さんの生き様も含めて、全てが学ぶべきことで、それらがお前の医者としての年輪になる事を忘れず、何時如何なる時も謙虚な姿勢で接しなさい。』と言うものです。患者さんに寄り添う医師の姿勢を示してくれた忘れない言葉であるとともに、還暦も視野に入る年齢になっても、患者さんの殆どは、私の先生…まだまだ若輩と思わずにはいられません。

その後、外科医の修練の一環で、病理医の研修を二年余りの間、経験しました。病理医とは、患者さんから採取した臓器や組織などを顕微鏡で観察し,癌などの様々な疾病の診断を行う医師の事で、基本的には、患者さんそのものの診察は行いません。この間は、患者さんと接するのは、アルバイトの時くらいでしたが、外科を含めた臨床医学と言う学問を、今までと全く違った側面から観察することが出来た貴重な時間であったと、思っています。

1999年9月1日付けで、私は、竹田綜合病院・外科にヒラの医員として、二年間の任期予定で着任しました。
着任当初は、多くの手術症例を任され、外科医として充実した日々を過ごし始めました。また、今まで赴任した小さな病院では、自分が一番若輩だったのですが、竹田綜合病院では多くの後輩医師の指導をする立場となり、若い医師を引き連れ外科医の春を謳歌していた日々であったと記憶しています。
そんな充実期の時間の流れは速く、あっと言う間に、大学医局との約束であった二年の任期は過ぎさりました。この時期には、いくつかの転勤の話を頂きましたが、竹田綜合病院での外科医としての充足感と、会津の二泣きを終えた頃の私は、会津の気質に安らぎを覚え、知らず知らずのうちに、この地で外科医として長く過ごす事となりました。また、徐々に病院の経営に関わる仕事も任される様になり、少しずつ立場も上がり、副院長職を拝命するまでとなりました。そうなると、外科医だけではなく、院内外で多くの仕事を任され、全国各地へ出歩く多忙な日々となり、医師としての最盛期を迎えた感に満たされた日々をすごしていました。

2020年新春気分が覚めた頃、全世界を未曾有の災害とも言うべき、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2/COVID-19)の流行が始まりました。
当初は、一過性の風邪の、少し重いやつくらいに考え、流行も、直ぐに収まるであろうと考えていましたが、徐々に長期化し、一般診療への影響も出始めました。まずは、医療機関への受診控えの影響なのか、我々外科医の生業となる手術症例の減少が始まり、さらに、人流抑制も叫ばれはじめました。全国に出かけ、様々な仕事をしていたのですが、こちらは、出張がほぼゼロとなりました。それまでは、時間が足りなくなるほど、様々な仕事を抱え、忙しくすることが生きがいのように生きてきましたが、50代後半を迎え、奇しくも様々なことを考える時間を与えられることとなりました。そんな時に、まず取り組んだのは、読み残した多くの本を読み漁る事でした。コロナをはじめウイルス学に関する本や、『60代からを如何に生きるか?』的な啓発本まで、ジャンルは様々でした。
また、2020年に夏には、忙しく走り続けてきた身体が不調を訴え、患者として入院生活を送ることも体験しました。今思うと、新型コロナウイルスの流行から、自らが患者として入院するなど、人生の転換期が、一気に押し寄せてきた感じでしょうか?

そんな中、今後の医師としての生き様について深く考えさせられました。外科医とての円熟期は終焉を迎える日も、遠くないであろうと感じつつ、まだまだ続けられると信じる気持ちと、徐々に外科医として閑職に向かう現実の間で、悩みました。特に、体調を崩したことは、体力に自信をもって生きて来た私に、老いを含め、様々な現実を突きつけることとなり、結果として、外科医として、黄昏ていく人生ではなく、新たなチャレンジができる、最後とも言える年齢であることを考え、外科医としての舞台から身を引き、大きな手術からはキッパリと足を洗う事を選択しました。
結論として、私が医師を志した原点を思い返し、いつしか菲薄化してしまった患者さんとの関係を、患者さんにより近い町医者として取り戻し、患者さんやご家族に必要とされるホームドクターとして地域医療の発展に携わる事に、残された情熱を傾ける決意をした次第です。
医師として、30年余りの人生を過ごし、その大半を会津若松の地域医療を、竹田綜合病院という、大きな舞台で過ごし、様々な経験をさせて頂きました。町医者として、患者さんやご家族の悩みを少しでも拭える立場を目指すためには、長く過ごさせて頂いた会津の地が最良と判断し、恩返しも含め、この地の地域医療の一助となればと考え、ここで医師人生の最後の舞台を町医者として演じる覚悟をした次第です。
まだまだ、駆け出しの町医者です。できることを一生懸命、少しでも皆様の悩みが解決できればと、様々な葛藤の日々です。是非とも、温かいご支援を賜れれば、嬉しく思える次第です。末永く、何卒、宜しくお願い申し上げます。

こしいしクリニック院長
輿石 直樹

 

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